井上章一 – 公益産業研究調査会／koken

『公研』2023年10月号「めいんすとりいと」 阪神タイガースが、セ・リーグのペナントレースを制覇した。ながらくこのチームを応援してきたひいき筋のひとりとして、たいへんうれしい。けっこうふがいない球団だっただけに、よろこびもひとしおである。 新しく阪神をひきいた岡田監督は、優勝への抱負を語らなかった。口にしてしまえば、ペナントがにげていく。その可能性におびえ、頂点を「アレ」と言いかえながら、記者会見などへのぞんできた。 このごろの若いスポーツ選手は、事前に勝利を宣言することが少なくない。「自分が勝つ」。そう言いきる人を、とりわけ格闘家たちによく見かける。大口をたたいて退路をたつ。そうして、勝つしかないところへ、自分をおいこんでいるのだろう。有言実行ということか。 いっぽう、大相撲の力士たちは、がいして大きいことを言わない。勝ちすすんでいる相撲取りも、言葉をにごしがちである。「一番、一番が勝負です」、「日々精進です」。そんな言いまわしで、賜杯へのあからさまな意欲をかくす傾向がある。 くらべれば、目標を「アレ」のひとことで煙にまく姿勢は、大相撲の口ぶりに近い。格闘技の選手たちが口にする景気のいいあおり文句からは、ずいぶんへだたっている。 関西の阪神ファンも、岡田流の「アレ」にならってきた。優勝とは言わない。ひかえめに「アレ」ですます謙虚ぶりを、監督とわかちあってきたのである。これまで、阪神はぎりぎりのせりあいに、よく負けてきた。それで応援をする側も、用心ぶかくなったようである。 ファンだけではない。関西のメディアも「アレ」という物言いにとびついた。一位が見えだしたころから、とくにその勢いは強まったと思う。「まもなく、まちにまったアレへ手がとどく」、「九月中のアレは、もうまちがいない」。テレビやラジオ、新聞もそんなふうにさわぎだした。 まじめに報道を考える人からは、苦情がきそうな告知ぶりであったと思う。「アレの可能性」などという口調で、ふざけるな。「優勝の可能性」と、おりめただしく報道してほしい。「アレ」ではしゃぐのは、ジャーナリズムとしていかがなものか、と。 だが、関西のメディアは、「アレ」をもてあそんだ。今のべたようなクレームも、たぶんあったと思う。しかし、阪神の話では、それらをにぎりつぶしてきた。「アレ」語りに興じる途を、たどってきたのである。 周知のとおり、このごろのメディアは言葉づかいに、たいそう気をつかう。こういう文句を表にだせば、抗議が殺到する。その言い方はひかえよう。あのフレーズもだめだ。どこそこから難癖がつけられる。さあ、こまった。どんなふうにあらわそう。以上のように、言葉えらびの問題で萎縮する度合いが強くなっている。 おそらく、この閉塞状況がメディア人たちをかりたてたのだ。せめて、阪神ではおもしろがりたい。「アレ」の連呼は、コンプライアンス的に問題がある。でも、いい。阪神のめでたい話なんだから、ファンといっしょにさわごう、と。表現の現場は手足をしばられている。だからこそ、「アレ」はハケ口として歓迎されたのではないか。 せつないはやり言葉だと思う。こういうものを流行語大賞にはしたくない。まさか、清水寺は、今年の一字を「」にしないだろうな。まあ、そんな心配をするほどの現象ではないのかもしれないが。 国際日本文化研究センター所長

「アレ」さわぎ 【井上章一】

「アレ」さわぎ【井上章一】