伊藤亜聖 – 公益産業研究調査会／koken

『公研』2023年2月号「めいんすとりいと」 カナダのトロント大学を訪れた。研究会のあと、現地で院生をしているかつての学生がご馳走をしてくれるという。「中華がいいですか、それとも二郎系ラーメンがいいですか」。後者を選んだ。郊外までウーバーで向かい、「トロントで唯一」なる触れ込みの二郎系ラーメンを存分に味わった。20カナダドルなので、２０００円だ。 ラーメンを選んだのは、ラーメンに飢えていたからだ。私はいま米国ボストン郊外のケンブリッジ市に滞在している。所得の差に加えて、インフレのあおりで、ほぼあらゆるものを高く感じる。 なかでも外食は高価で、ラーメンもその一つだ。豚骨ラーメンが15米ドル。チップ20％を入れて18ドル。１ドル１３０円のレートで２３４０円だ。 ハーヴァード大学があるハーヴァードスクエアでも、ありがたいことに二郎系ラーメンが食べられる。価格は25米ドル。チップ込みで３９００円である。頭の中で円に換算してはいけない。「一時帰国して三田に行くよりは、ずいぶんと安いなぁ！」と開き直りながら、食べるものなのだ。 考えてみると日本で暮らしてきた中で、いかにも倹約することに慣れてきたことに気が付く。３５０円の立ち食い天ぷら蕎麦をすする。御徒町の理髪店に通い、７００円で髪を切る。これで十分だ。日本各地の老朽化した大学の建物で行われる研究会も味わいがある。そもそもの財政状況からして建物を建て替えることは難しいだろうし、やむを得ない。この生活で、実に愉快だ。 むしろハーヴァードビジネススクールの五つ星ホテルと見紛うカフェテリアは、やりすぎである。なにも宮殿のように飾り付けなくてもいいではないか。あの日本の国公立大学の黄ばんで傷んだ研究室で議論するのが、むしろ正しい。清貧とは言わなくても、豪奢になびく必要はない…。 このやせ我慢の精神は、日本から国外に出ない限りにおいて大して問題にならない。所得が低くても、物価も安ければ、一見、何の問題もないからだ。しかしこの価格、所得、設備、思考の差は、視野を広げてみれば、可能性を狭める危険なものでもある。米国でも物価のみが高くては成り立たない。平均的な所得と物価がともに上がる傾向が長らく続いた。駅に行けば路上生活者はいる。平均的に沈みゆくのを拒否し、格差を是認して全体を拡大させている。 若手研究者に提示される「競争的な給与水準」はこちらの物価で決まる。学費もラーメンどころではなく高い。普通の日本人学生が米国の高等教育機関に留学するには、全額給付の奨学金を得るしか方法がないのではないか。公費で海外派遣される人も、定額の手当では足りず、毎月自腹を切り続けるしかないはずだ。 日本の企業や大学が、海外から優秀な人材を引き付けることは、特別待遇以外では困難だろう。私が頭の中でラーメン代を円換算したとたんに、心が受け付けないのと同じように、彼ら彼女らは、日本から提案される標準的な給与を頭の中でドル換算して、静かに心折れるかもしれない。逆に手に職のある日本人にとっては、国外で稼ぐことが現実的な人生の選択肢になってくる。ただ、人はそう簡単に移動しないので、価格差は容易く解消されないだろう。 トロントでラーメンの脂を味わい、汁まですする。ニンニクは山盛りで、これは嬉しい。もやしとは久しぶりの再会を果たした。金曜日の夜だからか、気が付けば店内は満席だ。外は雪が降りそうな寒さだが、店の外では数人が空席を待っている。 東京大学准教授

ラーメン２０００円問題【伊藤亜聖】