平井裕秀 – 公益産業研究調査会／koken

『公研』2023年2月号「めいんすとりいと」 仕事柄海外出張が多いのは仕方ないのだが、最近の欧州便の15時間超えのフライトには正直うんざりしている。新作映画の数々も、すでに先日の出張までで、ほぼ見たい映画は全部見てしまった。早々に処方された導眠剤を飲み、耳栓・アイマスクを装着。前回はマスクなしを咎められて起こされたことを思い出し、緩くマスクもして頭部の穴を全部塞いで就寝だ。 目が覚めて、暗くなった機中で時計を探して時間を見るとまだ５時間も経ってない。もう少し眠ろうと努力するも寝付けず。覚悟を決めて座席を起こし、食事をとりながら、こんな事態に備えてと持ってきた『希望の歴史』（ルトガー・ブレグマン著）を読むこととする。ハリケーンカトリーナの際に発生した社会混乱など、性悪説の証拠として持ち出されそうな事例の中の虚偽を指摘する一方で、性善説を支えるような事例の数々を列挙している。自分の中の常識をひっくり返される内容に知的興奮を覚え、頭は完全にさえてきた。ただ、暗い中での読書は目が疲れる。休憩を挟んでいると、「いやいや、ロシアのウクライナ侵攻がなければ、こんな長い空路になってないし」と思い返す。次々と報じられているウクライナでのおぞましい話の数々は、我々の祖父母や父母の世代の満州から難を逃れてきた人達や、シベリアで抑留された人達が経験し、見聞きしたものと符号する。割り引いて考えても、現在報じられている話の全部がプロパガンダではない筈。そう考え始めると、次々と性悪説に立たざるを得ないような話ばかりが頭をよぎる。美化される日本の社会にも倫理観を疑うようなニュースはあちこちに転がっている。この本のポイントは、多くの逸話が十分な検証なしに放置されている点にこそあるのではないか。結局、我々はバイアスに適合するような話しか聞き入れないし、そうではない話は聞こうともしてないのではないか。20年前の養老孟司先生の『バカの壁』の話が蘇ってくる。近年ではさらにやっかいなことに、ＳＮＳメディアではインプットからして自分の考えを固定化するような話ばかりを持ち込んでくる。ＡＩが判断してどうぞと差し出す情報は、バイアスを助長するものになっている可能性もある。 プーチン大統領が隣国侵略の判断をしたのは何故か。歴史の検証に委ねるしかない話ではあるが、そこに、自分自身の持っていたバイアスに基づく判断、さらには「バカの壁」の罠から逃れられなくなっていた環境があったのではないか。まさかトップがＳＮＳに没入しすぎてウクライナ侵攻を決断したのではないだろうが、長期政権、絶対君主化する中で、耳障りの悪い話は入らなくなってきていたことは確かであろう。「自分達は西側に何度もレッドラインはここだと警告済み」「ウクライナの社会は腐敗し、政権は不安定」「自軍が質量ともに圧倒的優位」「クリミアの時の西側の制裁もロシアは克服した」──。そんな内容のブリーフを延々と受け続けていれば、冒険主義的判断に流れても不思議ではない。慎重論が入っていたとしても、トップが聞く耳を持っていなかったのかもしれない。ウクライナの人達には申し訳ないが、これまでのウクライナ社会の評価は西側においても極めて低く、そのバイアスにプーチン大統領が毒されていたとしてもおかしくない。 ここまで来ると、次第に薄ら寒くなってくる。部下から上がってくる情報はバイアスが働いたものになっていないか、その判断を下している己が「バカの壁」で見たいモノだけを見ていないか、心許ない。さらに言えば、山本七平さんが『空気の研究』で指摘しているような「空気」で支配された判断をしていないか。未だ、同質のバックグラウンドを持つ男性がほとんどで終身雇用制、という昭和の匂いが残る役所組織では、要注意である。 いよいよ目が覚めてきた。先ほど断ったコーヒーをお願いし、出発前にブリーフを受けた書類をもう一度見直してみないと。なんと言っても、到着地まではまだ数時間もある。 経済産業審議官

欧州便の暗闇の中での覚醒 【平井裕秀】

欧州便の暗闇の中での覚醒【平井裕秀】