木村榮一 – 公益産業研究調査会／koken

『公研』2023年11月号「めいんすとりいと」 １９６０年代後半、コロンビアの作家ガブリエル・ガルシア＝マルケスの小説『百年の孤独』が出版されて、世界中の読者を驚倒させた。この作品が火付け役となって、以後ラテンアメリカ諸国の文学に熱い視線が注がれ、日本でもアルゼンチンをはじめメキシコ、ペルー、キューバなどの作家たちも注目を集めるようになる。 大学卒業後、ぼくは母校で教鞭を執ることになり、当初はスペインの現代文学を研究テーマにしていたが、これぞという作品に出会えず悶々としていた。そんな中、大学にふらりと迷い込んできたメキシコ人と雑談していると、「これからはラテンアメリカ文学の時代だ」と言って、ぼくに前衛的な技法を駆使したフリオ・コルタサルの小説『石蹴り遊び』と題された一冊の分厚い本を進呈してくれた。 彼と別れたあと、電車の中でその小説を読みはじめるとたちまち魅了され、この作家の書いたものをすべて読んでやろうと心に決めた。早速書店にその本の著者コルタサルの書いた作品を取り寄せてもらうことにした。注文した本が届くと、その度に夢中になって読みふけったのを今もよく覚えている。その頃から日本でもラテンアメリカ文学が注目されはじめ、翻訳書が次々に出るようになった。自分のところに翻訳の話がくるとは思ってもいなかったが、知り合いの先生のお声掛けでコルタサルの短編集を訳すことになったのは僥倖というほかはない。 来し方を振り返ってみると、自分は数々の幸運に恵まれていた。大阪の下町にある貸本屋で大衆小説やマンガ本を借りて読みふけっていた中学生が、ある日たまたま兄の本棚に並んでいたドストエフスキーの『罪と罰』を読んで脳天に痛撃をくらい、以後外国文学に親しむようになった。ただ、入学した高校は落ちこぼれ生徒の集まる学校だったので毎日遊び暮らしていたが、さすがに大学受験の時期が迫ってくるとぼんやりしていられなくなった。 ある日友人と受験の話をしていると、穴場だと言って指さしたのが神戸市外国語大学で、欄外に小さな活字でイスパニア（スペイン）学科新設と出ていた。なるほど、そうかと思って入試の手続きに行くと、一カ所だけ長蛇の列ができていて、それがイスパニア学科の受付だった。思わず天を仰いだが、ともかく手続きを済ませ、翌日高校へ行って友人にその話をすると、自分は別の大学に合格したから関係ないんだ、という答えが返ってきた。 ぼくはいくつかの大学を受験したが、連戦連敗でその年の受験をあきらめて予備校へ行くつもりでいた。ある日夕食をとっていると、試験はどうだったと父から訊かれたので、どこもだめだった、あとひとつ残っているけど、どうせだめだから一年浪人させてほしいと言ったら、思いもかけない返事がきた。「あほやなあ、受験なんてものは水もんや、受けてみんことには合否のどっちへ転ぶか誰にもわからん。何でもいいから受けてこい」と背中を押された。試験まで数日しかなかったが、苦手な数学の問題集に目を通した。当日、試験場で数学の問題を見ると、なんと前日やったのとほぼ同じ幾何の問題が出ていた。そのおかげでビリから二番で合格したのだから、運がいいとしか言いようがない。 次いで、大学三回生の後期に入ると、クラスの中から教師として誰かひとり残るらしいといううわさが流れた。ある日、学科の先生から応募してみないかと勧められてびっくりしたが、応募すると、翌年の秋に教授会で承認されたと伝えられ、以後定年まで母校で教鞭を執ることになった。人生というのは、運と縁次第でどこでどう転ぶかわからない。 翻訳家、神戸市外国語大学名誉教授

運と縁【木村榮一】