松永和紀

『公研』2023年6月号「めいんすとりいと」 ＢＳＥ（牛海綿状脳症）を本誌読者は覚えておられるだろうか？ １９８６年に英国で発見され、当初は狂牛病と呼ばれていた死に至る牛の病気だ。感染牛の脳や脊髄などに病原体の「ＢＳＥプリオン」が多く含まれ、これらを原料とした飼料が牛に与えられて感染が広がった、とされる。さらに、ヒトがＢＳＥプリオンを食べることにより、変異型クロイツフェルト・ヤコブ病（ｖＣＪＤ）を発症する、とみられている。日本国内では２００１年、ＢＳＥに感染した牛が初めて確認され、社会はパニックに陥った。 だが、世界中で対策としてＢＳＥプリオンの飼料への混入を禁止する規制や、ＢＳＥプリオンが含まれる可能性のある部位を食用としないこと、牛の検査などが実行され、ＢＳＥは終息に向かった。これまでに世界で見つかったＢＳＥ感染牛は計19万頭あまり（うち英国で18万５０００頭）。ヒトのｖＣＪＤは２２９人が確認されている。日本では、ＢＳＥ感染牛が計36頭見つかり、ｖＣＪＤ患者は英国滞在歴のある１人にとどまった。 このＢＳＥ問題は、日本では病気の流行に留まらず、食品安全行政を大きく転換する契機となった。２００１年の感染牛発見の前、ＥＵからＢＳＥ発生のリスクについて指摘を受けていたにもかかわらず風評被害なども懸念して情報が公開されず、適切な対策が講じられなかったのだ。感染牛発見後、農水省と厚労省が合同で調査検討委員会を設置。消費者団体代表なども加わって検討した結果、明らかとなった。 その反省に立ち、食品安全基本法が２００３年に施行され、食品安全行政に「リスクアナリシス」という枠組みが導入された。リスクは「食品中の危害要因によって生じるヒトの健康への悪影響が起きる可能性と影響の程度」と定義される。それまでの食品安全行政は、「事故が起きた事例をもとに対策を講じる」という考え方が強かった。そうではなく、事前にリスクの大きさを予測し対策を講じ事故を未然に防ぐのがリスクアナリシスだ。検討の過程で透明性を保ち、市民とも意見交換する「リスクコミュニケーション」の実施も盛り込まれた。 あれから20年。この間の成果はどうであったか？ ＢＳＥ対策はもとより残留農薬や添加物等の規制は進んだように思う。さらに、鉛やカドミウムなどの重金属、自然毒であるかび毒や調理加工由来の発がん物質などは、急性影響はないものの慢性影響が懸念されることが明らかとなり、対策が進みつつある。 一方で、人の行動はなかなか変えられないこともわかってきた。誤解を恐れずに書けばこの20年、「国のせい」「事業者のせい」となる事象に対する市民の批判は鋭かった。一方で、市民自身の「リスク管理」の意識はなかなか醸成されない。鶏肉の生食で食中毒が多発し深刻な後遺症も生じるとして省庁が生食をしないように呼びかけても、多くの市民が従わない。健康食品にも特有のリスクがあることを内閣府食品安全委員会や消費者庁などが訴えても市民は引きつけられ、医薬品の服用を勝手にやめて健康食品に走る人までいる。 ２０２４年には、厚労省が所管していた食品基準の設定などの食品衛生業務が消費者庁に移り、食品安全行政はまた、大きな節目を迎える。市民の間でＢＳＥ問題は忘れられつつあるが、市民の科学リテラシーやリスク管理する意思をどう培いリスクコミュニケーションへの参画を促すのか、考え続けなければならない。 （本稿は、所属する組織の見解ではなく、個人としての取材に基づきます） 科学ジャーナリスト

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