猪木武徳 – 公益産業研究調査会／koken

『公研』2024年1月号「めいんすとりいと」 正月休みに東京から遊びに来た中学生の孫に、「この正月でボクもとうとう80歳だよ」と言うと、「なんで？ 78じゃない」と不思議そうな顔をする。「数え年」という齢の数え方に馴染みがないようだ。「人間は生まれた時が１歳、そして正月を迎えるごとに、さらに１歳年を加えると昔の人は考えたんだ」と説明すると、「科学的じゃないね。変な数え方！」と一蹴してくる。 これは見過ごしてはならない。「科学的ではない」という言葉で、合理性を偏重して別の考えを軽々に否定するのはよくないと、数え年の考え方を説明した。人間は母親の胎内に宿ってから生まれ出るまでに１年近い月日を過ごしていること。満年齢では、ゼロ歳の赤ちゃんは「生後何カ月」と表現せざるを得ない。閏年あるいは閏月の暦法上の問題も面倒なので、元旦に、一斉に一歳年を取るとしたほうが簡便と説明。それに、「新しい年を迎えて人が精神的に成長する」ようにとの願いも大事だと付け加えた。 説明した後、辞典で調べて見ると、実は東アジアの文化と暦法上の複雑な問題があることがわかった。ただ年寄として伝えたかったのは、なんでもかんでも論理的に整った説明ができないことを「非科学的」と否定するのはよくないという思いであった。 科学を尊ぶのは大切なことだが、科学的分析で森羅万象すべてが説明できるかのように信じ込むことはよくない。わからないことが人間、自然、社会に溢れるほど存在している。しかし現代社会では、わからないことに目を向けようとする姿勢を応援する声は低い。もちろん似非科学には警戒すべきだが、科学的体裁をしていれば（厳密であれば）すべて真理であるかのように思い込んでしまう姿勢も、似非科学への道に陥る危なさがある。 20世紀に入っても、偉大な科学者の多くは、必ずしも宗教と科学を対立する精神活動とは考えていなかった（物理学者の三田一郎『科学者はなぜ神を信じるのか』参照）。 芸術と科学の関係も単純なものではなさそうだ。サイエンス・ライターのジョナ・レーラーの書いた『プルーストの記憶、セザンヌの眼─脳科学を先取りした芸術家たち』は、芸術の分野における創造的な仕事が、科学分析による発見より早かった例を具体的に説明している。同書は、文学、絵画、音楽、言語、料理などの人文学や芸術の分野における先駆的な試みの中には、あとになって科学による分析が加えられたことで、その「知」の性格が明らかにされたものもあることを論じている。一つだけ料理と味覚から例を挙げておこう。 近代フランス料理の父、Ａ．エスコフィエは、仔牛肉でつくったスープの素（ヴィール・ストック）を考案したことで知られる。それまでは人間の舌が味を感じ取るのは、甘み、塩味、苦み、酸味の四つのみと考えられていた。ヴィール・ストックという変性したたんぱく質に対して、舌が「旨い」と感じることに気付いたところに、エスコフィエの「料理という味覚芸術」上の発見があったとレーラーは指摘する。いわゆる「ウマミ」の発見である。１９０７年、池田菊苗は古来日本で使われて来たダシの味を探究すべく長期にわたる孤独な実験を重ね、グルタミン酸塩が５番目の味の要素「うま味」であることを突き止め、それがいまや世界の常識となった。 科学と芸術が決して相対立する立場にあるわけではないことを知る上でも、レーラーの本は示唆に富む。数え年は「科学的でない」と断定することに抵抗した年寄の姿勢は、意外にも奥行きのある重要な問題を含んでいたことになる。 大阪大学名誉教授

「科学的」ということ【猪木武徳】