竹村公太郎

『公研』2023年8月号「公研セミナー」 第717回公研セミナー 日本水フォーラム 代表理事 竹村公太郎 たけむら こうたろう：1945年神奈川県出身。70年東北大学大学院修士課程修了後、建設省（現・国土交通省）入省。関東地方建設局宮ヶ瀬ダム工事事務所長、河川局開発課長、河川局長などを経て国交省を退官。専門は土木工学（特に河川）。博士（工学）。著書に『日本史の謎は「地形」で解ける』『水力発電が日本を救う』『“地形と気象”で解く！ {の都市 誕生の謎』など。 なぜ家康は悲惨な不毛の地・江戸へ？ 竹村 私が公研セミナーで講演をするのは２回目です。前回は「日本文明と災害とエネルギー 汾⒍ﾍ発電の底力」と題した講演でした。今日はエネルギーの話ではありません。しかし、大事なことなのでエネルギーに関して一言お伝えします。前回講演時の２０１９年、日本のエネルギー自給率は６％でした。現在は10％です。これは再生可能エネルギーが増えた分です。しかし、この10％という数字はかなり厳しい数字です。エネルギー自給率10％の国は必ず滅びます。10年、20年はもつかもしれませんが、50年、１００年は絶対にもちません。これは世界の歴史、日本の歴史を見ても明らかです。日本文明の衰退・崩壊を阻止するためには最低でも30から40％にしないといけない。今から本気で取りかかりましょうというのが前回のセミナーのお話でした。 今回は、テーマを少し柔らかいものにして「大土木技術者、家康が築いた近代日本の礎」と題したお話をします。徳川家康はなぜ江戸開府をしたのか。そして、なぜ明治時代に近代化に成功したのかというお話です。 私は建設省、国交省時代にダム建設に携わってきた土木屋で、インフラのことしかお話しできません。ですから、地形で歴史を語っています。地形で歴史を見ると、歴史家の方とは異なる新しい見方ができます。この地形という視点はあまりやられていません。例えば、私は地形を根拠に「忠臣蔵は八百長だ」という説を立てました。実は地形から見たらありえないようなことが通説になっているなんてことがあるのです。本日のお話も、地形から見ると「これは少し違うんじゃないか」という歴史を、新たな視点からご説明します。 北海道から沖縄まで全てに地形は存在するので、当然、歴史には地形が深く関係します。地形は平面ではなく立体です。なので、そこで起きた歴史も立体的に見ていかないと読み解けません。ここが歴史と地形をくっつけたポイントです。このような前提で、本日のお話を聞いていただければと思います。 家康は江戸に帰還 さっそく本題に移ります。家康は関ヶ原の戦いで勝利したにもかかわらず、なぜ江戸に帰ってしまったのでしょうか。これは歴史の謎として未だに議論が続いています。というのも、今川義元も武田信玄も、織田信長も豊臣秀吉も、天下を取ろうとする者はみんな、京都を掌握する必要がありました。京都に朝廷があり、その朝廷を抱えることが「天下取り」を意味したわけです。戦国時代のエース武将たちは、軸を畿内に置いて朝廷を抱え込もうと努力してきました。 しかし、徳川家康だけは１６００年の関ヶ原の戦いに勝ち征夷大将軍になると、すたこらさっさと江戸に帰ってしまいます。昔、この謎をテーマにしたＮＨＫの討論会に参加したことがあります。歴史家の方が二人、小説家の方、哲学者の方、そして土木屋の私です。変わった視点が欲しくて私のことをキャスティングしたのかもしれません。 家康は京都から名古屋を越え、さらにアルプス、富士山、箱根を越えて江戸に帰ってしまいました。１６０３年の当時からすると、これはとんでもないことでした。当時、華やかな文明が栄えていたのは静岡あたりまでです。なので、家康は文明の果てに行ってしまったという感じです。歌川広重の『東海道五十三次 箱根 湖水図』では、箱根の道を歩く大名行列の姿が描かれています。行列が歩く道は非常に狭く険しいものです。東はそんな道しかない未開の土地でした。 さらに、家康が豊臣側に勝ったとしても、豊臣家は関ヶ原後にも大阪城に居続けていました。このように、西には有力な大名の毛利家、島津家そして長曾我部家が構えているにもかかわらず、家康は江戸に帰ってしまったのです。歴史家の方々は人間模様から考察し「豊臣家が大阪城にいたから、家康は力を蓄えるために江戸に行った」と説明しています。しかし、土木屋の私からすると違った解釈が見えてくるのです。 地形から見ると、どんな解釈ができるのか。話は関ヶ原の10年前、家康が関東を得るきっかけとなった１５９０年の北条討伐に遡ります。後々の話にも繋がるので、この１５９０年という数字を覚えておいてください。大事な数字です。１５９０年に豊臣秀吉は天下を取ります。その時期の勢力図が図１です。徳川家康は静岡の駿府にいて、北条が関東にいました。 １５９０年、豊臣秀吉は北条討伐の軍令を出し、家康がこれに加わります。その北条攻めの一番のポイントは石垣山の一夜城とされています。この城は豊臣秀吉が北条の小田原城を攻略するために建てたものです。歴史の話では秀吉が一夜城を建てたからこそ、北条攻めが成功したとなっていますが、私はそうではないと考えます。実は一夜城の建設だけでは攻め落とされないほど、小田原城は非常に良い立地に建っているのです。 というのも、小田原城は後ろから攻められる心配がなかったのです。城の西には箱根と富士山があり、その先にはアルプス山脈があります。なので、敵は縦に長い列で攻めてくるので、簡単に反撃することができます。３万、４万の軍勢が陸路から押し寄せてくることは地形的にありえませんでした。北条は非常に良いところに城を建てたのです。 ではどうやって家康は小田原城を落としたのか。実は小田原城の弱みは前面の海にあったのです。徳川水軍と毛利水軍・九鬼水軍が海から攻めたことが北条に大きな一撃を与えたのです。九鬼水軍は有名ですね。当時、最強の水軍と言われていました。また、徳川家は駿府の駿河湾を制するなど水軍が強かったですし、割と近くの静岡から小田原に来たので余裕がありました。徳川水軍が遠い瀬戸内海から来た毛利水軍と九鬼水軍を案内して小田原城を攻めたので、北条は降参したと私は考えています。 北条成敗で活躍した家康は関東・江戸へ左遷 そして北条討伐に成功した後、徳川家康がよく頑張ったということで、その褒美として１５９０年に秀吉が家康に北条の関東をあげたと歴史書には書かれています。褒美のように言われていますが、これはとんでもない左遷です。幽閉と言っても過言ではない。豊臣秀吉は地形をよく理解していた人なんですね。そのため戦略的に北条の跡地の関東に家康を押し込んだ。 なぜ幽閉なんて言い方をするのかと言いますと、実は関東は今でこそ立派ですが、当時は役立たずの悲惨な土地だったのです。家康がもらった武蔵野台地はまったくの不毛の大地でした。現在の武蔵野台地には玉川上水がありますが、玉川上水は１６５３年にできたものです。なので、家康が関東に来たときには、武蔵野台地には川がありませんでした。沢水が少しありましたが、こんなものは雨が降っても２、３時間で水がなくなってしまいます。当時、日本でこれほど広い土地でありながら大規模な農村共同体が存在しなかったのは武蔵野台地ぐらいではないでしょうか。というのも、奈良時代から平安時代にかけて、ほとんど全ての川の周辺には人が住み農村共同体ができあがっています。そこでは堤防をつくり、水を取り入れて農業を営み頑張っていた。そんな営みができなかった不毛の大地が武蔵野台地です。 関東の大湿地 さらに、関東の今で言う下町の位置には大湿原地帯が広がっていました。これもまったくの不毛の土地です。では、なぜこんなにも広い湿原なのか。縄文時代はこの地域は海だったのです（図２）。約６０００年前に、縄文海進という平均気温が２度上昇する温暖化が起きました。その影響で氷が解けて、海面がどんどん上昇します。最終的には５メートル上がり、図２のようになったのです。これは私の仮説ではなく、定説です。 その後、寒冷化によって海面がどんどん下がっていきます。そして、関東平野の全ての川が運んできた土砂が堆積していって大湿地帯になったのです。水がある場所に川が流れ込んでくると、川の流速は遅くなります。川の流速が低下すると、運ばれてきた土や砂は下部に落ちて堆積していくのです。川が海や湖に突っ込んでいくと、水の中の砂が下に沈降していきます。これが６０００年間続いて関東が大湿地帯になったのです。 この江戸の湿地帯にそっくりな地形が現代にもあります。それはフランスのモン・サン＝ミッシェルです。サン・マロ湾上に浮かぶ小島に修道院が建っている世界遺産で、目の前が湿地帯になっています。これが武蔵野台地と江戸城の位置関係とまったく同じで、江戸城からは、目の前には大湿地帯が広がり、背後には雑木林が続く武蔵野台地の姿が見えたはずです。 モン・サン＝ミッシェルのランス川は利根川の10分の１しかありませんが、何千年もの間も砂が流れ続けたので今のような地形になりました。日本の場合、関東平野となる地域には利根川・渡良瀬川・荒川が６０００年間流れこんでいました。そのため、ランス川とは比べ物にならないような、目もくらむほど広い湿地帯ができたのです。 後程のお話とも繋がってくるのですが、関東平野に流れる利根川筋には関宿あたりに盛り上がった地形がありました。当時この地形は群馬から流れてくる利根川をブロックしていました。なので、昔は利根川は絶対に銚子には流れなかった。今の利根川は銚子に向かっています。これは４００年前に家康が台地を掘削したから、利根川は銚子まで流れているのです。しかし、家康が江戸に入ったときには、目もくらむような湿地帯が広がっていた。静岡の駿府を持っていた家康が不毛の土地に行かされたということは、とんでもない幽閉だったのです。豊臣秀吉はこの地形の悪さを知っていました。 では、１５９０年に江戸に閉じ込められ、１６００年の関ヶ原の戦いまでの10年間、家康は何をしていたのでしょうか。この時期に彼はほとんど江戸城には居なかったと言われています。実は家康はその間、関東一帯で鷹狩をしていたのです。その目的は鷹狩をしながら関東の地形をフィールドワークすることです。家康が鷹狩をこよなく好んだという記録は、各地の歴史館に残っています。 家康が見た関西 冒頭にお話した歴史の謎に話を戻します。なぜ家康はあの悲惨な江戸に戻ったのか。家康は１６００年に関ヶ原で勝つと、すたこらさっさと江戸に戻ってしまった。実は、家康は戦国時代の関西でとんでもないものを目撃していたので、畿内を避けたのです。それは関西の禿山です。 当時の関西は禿山ばっかりでした。図３は滋賀県野洲市の立石国有林の写真です。家康の時代に写真はなかったのでこれは１９１３年頃のものですが、山の地肌が丸見えで木がないことがわかります。 当時、エネルギー資源は木しかなかったので、関西の森林資源は枯渇していました。明治に入りようやく石炭というエネルギー資源が登場しますが、それ以前は木が日本を支えていたわけです。昭和にも多くの山が禿山になりましたが、これは木を含めたエネルギーを全部戦争に投入したからです。 また、木がない関西は疫病の巣と化していました。戦国時代の京都は約20万人以上が暮らす大都市でしたが、森林がないため山から綺麗な水が流れてこず、排泄物が溜まり、疫病が蔓延していたのです。京都の祇園祭が疫病払いというのは有名な話ですね。鴨長明の『方丈記』にも、鴨川に疫病で亡くなった４万人の死体が積んであったという描写があります。４万人ってすごい数です。５人に１人が亡くなったことになります。このように家康が関ヶ原で戦っていた時代の京都は、極めて不潔な地域だったのです。これは、家康が江戸に戻った根拠の一つになります。 では、関西がどれほどの禿山だったのか見ていきましょう。コンラッド・タットマンという米歴史学者が非常に良い資料を残してくれました。タットマンは日本の神社仏閣に入り込み、それらがどこの木を使って創建されたかを縁起物から読み取り、図にしました。それが図４です。縁起物には神社仏閣がいつ建てられ、いつ大改修されたのか、どこから木材を持ってきたかなど、神社仏閣に関することが書いてあります。 図４の一番濃い部分が奈良時代の伐採圏です。奈良時代には琵琶湖の北まで木を採りに行ったことがわかります。この時代に奈良盆地には木がなかったということです。次に濃い部分が戦国時代です。図を見ると能登半島、伊豆半島、紀伊半島、山口、高知まで木を伐採しに行っていたことがわかります。 実は関ヶ原の戦いの物語は、関ヶ原が禿山だったから成立する物語です。先日、『ブラタモリ』で関ヶ原の特集が放送されていました。タモリさんが関ヶ原の林の中を歩き続け、最後の見晴らし台でようやく景色が開けます。今は木が生い茂っているので途中までは何も見えません。しかし、関ヶ原の戦いでは小早川が裏切ったとか、島津隊が苦戦しているとか、戦いの動きがよく見えた。それは山が丸裸じゃないと不可能ですよ。木が生い茂っていたらよっぽど高いところに登らないと戦場で何が起こっているか見えない。皆さんも今度新幹線に乗ったら、名古屋から京都の間で、関ヶ原付近の景色をじっと見てみてください。木が生い茂っていてあの中に入ったら外からは何も見えないことがわかります。今の状況ではなくて、当時のことを想像しないと歴史の物語は読み解けないわけです。 家康が江戸で発見したお宝 １５９０年に江戸に幽閉された徳川家康は、10年間鷹狩をしていたと先ほどお話ししましたが、そのときに家康は関東でお宝を発見します。それは〝大油田〟とも言える、日本一広く資源の豊富な武蔵野台地です。先ほど私は、当時の武蔵野台地を川の流れていない雑木林が続く「不毛の土地」と、わざとバカにしたような言い方をしました。しかし逆に大河が流れていなかったからこそ、森林が手つかずのまま残されていたという利点があったのです。図４を見ればわかるように、１５９０年ではまだ関東の森林は伐採されていませんでした。 日本文明は奈良で生まれました。奈良には大和川という川があります。桓武天皇は大阪湾に流れ着く淀川水系の京都へ遷都しました。しかし、戦国時代の関西の惨状を見た家康は「冗談じゃない。あんなところにはいられない」と考えたのではないでしょうか。だから家康は京都の朝廷を抱え込もうとは思わず、徳川家の存続を第一に、江戸に行ったわけです。徳川家はあの不潔で悲惨な禿山のある関西では発展できないと。家康はフィールドワークで、資源が豊富な利根川流域という大油田を発見したのです。 家康が見つけたお宝がもう一つあります。図５を見てください。先ほどもお話ししたように、当時の利根川は銚子まで繋がっていませんでした。利根川は関宿の地形にぶつかって、東京湾に流れ込みます。ところが家康は１５９０年に関東に入って数年もしないうちに、利根川を銚子まで繋げるという一大事業を構想します。利根川の氾濫による水害から江戸を守り乾田化させ、大穀物地帯を創出させるための治水事業です。これは利根川東遷と呼ばれていて、家康の代では終わらなかったので、秀忠、家光の代まで引き継がれていきます。この家康の利根川東遷事業があったからこそ、関東平野は水害から守られ現在のような発展を遂げることになるわけです。 この利根川の治水事業は、今でも国土交通省によって続けられています。家康によってつくられたこの地形は決定的なのです。この地形ができたからこそ関東平野という大平野が生まれ、穀物地帯が誕生したのですから。 利根川が江戸川に分流する様子をご紹介します。この空中写真（図６）は、洪水時の利根川・江戸川を写したものです。左の大きい川が利根川で銚子に流れ着きます。家康がつくったものです。そこから分かれる江戸川は東京湾に繋がっています。洪水時だとはっきりわかると思いますが、流れる水の70％が銚子に行っています。東京湾にはたったの30％しか行かないように、人工的にブロックがつくられています。これは現在国土交通省によって管理されています。江戸時代は杭を打ってブロックしていました。また、利根川の左側に集落がありますよね。集落があるということは、もともと高台だったことを意味します。その高台を切って銚子に利根川を流したことがわかります。 私は日本で一番の大土木技術者は徳川家康だと思っています。ここまで大胆に国土を改変した人は他にはいません。一方で、あまりにも大幅に川の流れを変えたため、利根川に合流する小貝川や鬼怒川は塗炭の苦しみを味わうことになってしまったのも事実です。 図７は昭和56年の小貝川決壊の空中写真です。不思議なことに上流からの水は綺麗ですが、下流からの水は濁っています。下流にある利根川の水が逆流して水害を起こしているからです。下流から洪水が起こるのは日本ではここぐらいではないでしょうか。小貝川自体の洪水は１日で収まりますが、家康が利根川を銚子にもっていったことで、小貝川だけでは終わらず下流の利根川から洪水が住民を襲うのです。 小貝川の水防団の方々とお話しをしたときに、とても独特な水防の仕方を教えてもらいました。大雨が降ると小貝川にペットボトルを投げます。ペットボトルが下流に流れている間は黙って見ている。ところが、ペットボトルが止まった瞬間に「逃げろ！」と避難命令を出すそうです。止まったことが下流から水が上がってくる合図なのです。こうなったら利根川からの洪水なので、もう手がつけられない。 鬼怒川も同じです。２０１５年９月に鬼怒川が決壊したことは記憶に新しいでしょう。鬼怒川も利根川がなければもっと早く水位は下がるので、２０１５年のような決壊は起きなかったかもしれません。このように、家康が構想した利根川東遷によって、利根川下流部の千葉や茨城の方々は、現在まで水害の苦しみを味わうことになってしまうのです。治水は全てがパーフェクトに上手く収まるということはありません。どこかが上手くいくと、別のどこかにまずいことが起きてしまうのです。 人類の奇跡、明治の近代化 ここまで、家康がどうやって現在に繋がる関東を築いたのかについてお話ししてきました。私は家康が築いた２６０年間の江戸時代に、日本文化の基礎ができたと考えます。では次に、家康が基礎を築いた後の話、明治の近代化に話を移しましょう。 アーノルド・Ｊ・トインビーというイギリスの歴史家をご存じでしょうか。若い人は知らないかもしれませんが、私の学生時代、トインビーの歴史書は必読の一冊とされていました。彼が明治の近代化についてある言葉を残しています。「人類の奇跡の一つは明治の近代化である」と。日本の奇跡ではなく人類の奇跡です。 近代化以前の日本は、全国各地に権力が分散する幕藩封建体制で成り立っていました。それが一気に国民国家となったのです。そして、奇跡と言われる所以がその方法です。近代化の過程で徳川家は誰もさらし首にもならず、幕府の幹部たちはそのまま生き残ったのです。非常にスムーズに政権交代が行われました。江戸が焼かれることもなかった。人類の長い歴史から見てもこんなことは明治の近代化以外にありません。普通、次の政権が前の政権の首を取り、文書を焼き、散々のことをやってようやく大きな変化が起きるという流れが歴史の常識です。トインビーが「奇跡」という言葉を使ったということは、あの歴史家ですらなぜ日本ではこんなことが可能だったのか、解明できなかったということです。 しかし土木屋の私から見ると、この「奇跡」が起きた要因の一つがインフラの発展だと考えます。近代化以前の幕藩封建体制は領主様のために生きる人生でした。ところがそれがガラッと変わり、自分のために生きる人生になります。これが国民国家です。それを可能にしたのが蒸気機関車です。近代化の象徴ですね。明治５年に新橋から横浜に開通しました。世界で一番長い日本人の歴史で、ここでようやく蒸気という動力に出会ったのです。これは相当な衝撃だったのではないでしょうか。それまでは多摩川を越えるだけでも待ち時間を入れて20分程はかかっていましたが、汽車だと30秒ぐらいで越えてしまうのですから。開通式で蒸気機関車を初めて見た大久保利通は、その日の日記に「これだ、これだ。この汽車だ！ 愉快、愉快」と記したそうです。実は大久保利通はもともと汽車反対派でしたが、開通式を見て一気に転向し、汽車のインフラ投資に力を入れます。 もともと汽車推進派は伊藤博文と大隈重信で、反対派が大久保利通と西郷隆盛でした。反対がある中でも伊藤博文と大隈重信はイギリスに渡り、日本の債券を売ります。そのお金であっという間に東北から東海道まで、国鉄を築いてしまいました。たったの18年間です。ほとんど変化のない停滞した現代日本社会からは、想像もつかないスピードですね。 国鉄の誕生によって、明治23年には帝国議会ができ、国民国家となり近代化がどんどん進みます。というのも、国鉄が日本社会の流域を横断することに一役買ったのです。近代化以前の徳川の時代は、各大名を流域の中に封じ込めていました。流域の中で頑張れと。そのような社会が江戸の２６０年間続きましたが、汽車によって横っ腹に穴が開くことになります。汽車が人々を東京に集中させる装置となったのです。長男は国に残りましたが、次男、三男、四男坊はみんな汽車に飛び乗り関東に集まります。私の親父もそうでした。 １０００年先を見据えた国土開発を また、関東にはそれだけの人が集まれる広い土地がありました。大阪や京都、静岡では狭すぎた。広い関東平野があったからこそ、日本は近代化できたのです。この関東平野をつくったのが徳川家康です。彼が利根川を銚子に向けて関東平野を誕生させたことが、今の近代社会に繋がっているのです。 国土開発というのは目先の話だけではなく、家康のように４００年、５００年、６００年さらに１０００年という目線で見るべきです。これは、インフラ屋として本日強くお伝えしたかったことの一つです。 もう一つ、家康は五街道をつくりました。これも近代化に大きな影響を与えました。東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道と立派な五街道があったからこそ、蒸気機関車の線路ができたのです。江戸時代の交通インフラが蒸気機関車社会を迎えることになるのです。だからこそ、全国民が関東に来て国民国家形成の議論が可能になりました。しかし、なぜ家康が五街道をつくったのかは、現在でも様々な議論があり、解決していません。五街道をつくると、江戸に攻め込まれる可能性がどうしても出てきてしまうからです。 また、不毛な武蔵野台地が手つかずだったこともあり、関東には土地開発をする余地が残っていました。国鉄中央線、小田急線、西武線、京王線、東武線、東急線が通るだけの土地が残っていた。駅は渋谷、新宿、池袋ができました。 中央線で立川まで行く際、外の景色を見てみてください。車窓からは目がくらむほどまっ平らな地形が広がっています。関東でなぜここまで住宅地が開発できたかというと、それは大きな川がないことで農村共同体ができなかったからです。大きな川があるとその周辺には必ず農村共同体が発生します。生活のために川の近くに堤防を築き、堰をつくり、農村共同体ができるという歴史が全国各地にありますが、武蔵野台地には川がなかった。川と言うとせいぜい玉川上水という、江戸に飲み水を引っ張ってくる水路があったぐらいです。 このように、日本中から鉄道に乗って来た人が集まれる場所は、関東しかなかったのです。日本中から若いエネルギーを持つ人々が集まり、喧々諤々議論をして、憲法を議論し、法律を議論して、さらに企業を興して、世界に向かっていく。その拠点がこの関東平野でした。 歴史の視点の異なり ここまで、家康が近代日本の基礎をつくったというお話をしてきました。また、先ほど利根川東遷は関東に大穀物地帯をつくることが目的だったとお話もしました。家康は湿地帯の関東を乾田化して大穀物地帯にするために利根川を銚子に持って行ったと。他方で、本当にそんな理由で家康は利根川東遷をしたのか、という疑問がいささか私には残っています。 よく調べてみると、家康が鷹狩を始めたのが１５９０年。そして、家康の建設大臣で工兵隊長の伊奈忠次が利根川東遷の工事に着手したのが１５９４年。関ヶ原の戦いが１６００年です。関ヶ原の前に工事がすでに始まっています。「あれ？」と思いました。これから豊臣方と一戦を交えようとしている忙しいときに、穀物地帯をつくるという目的でこんなことをやるのかと。 そこでポイントとなるのが、関宿の地形です。利根川東遷でも地形的にキーとなった関宿は、東北から関東へ攻め込んで来ることのできる唯一の陸路です。ここは陸続きになっていました。その関宿を越えて南に下り、房総半島を抑えられたら、徳川は東京湾の制海権を失うことになります。もし、房総半島が占拠されたら、徳川家康は江戸に封じ込められ、身動きが取れなくなってしまいます。それほど関宿は重要な場所なのです。なので、家康は関宿に掘をつくって北からの敵を防御しようとしたのではないでしょうか。 関ヶ原の戦いの時期に、関東の北には上杉がいました。さらに北は伊達が支配していました。この上杉と伊達は非常に厄介な人物でした。伊達は戦国の最後まで暴れていた男で、上杉は豊臣家側について徳川家康と敵対した男です。そんな彼らが、関宿を越え北から攻めてきて房総半島を支配したらどうなるのか。家康にとっては非常に危険な状態です。これをどうにか避けたかった。家康が利根川東遷に着手した当初は、北の上杉と伊達を防御する堀をつくりたかったのではないかと思うのです。先ほどお話しした利根川の経路を変えて関東を乾田化させようというのとは、また違った目的です。 そして、１６１５年の大坂の陣で完全に全国制覇した後は、工事の目的が乾田化に変わります。つまり、家康が堀をつくるために着手した工事を、徳川の歴代の将軍たちが目的を変えながら引き継いでいったと私は考えます。 歴史の出来事は一つの見方からだけではなく、長期的な時間軸も含めて考えなくてはいけません。現在、国土交通省の人に、「なぜ家康は利根川を銚子に持って行ったのか」と聞けば、彼らはきっとこう言うと思います。「関東を洪水から守るため」と。21世紀の今でも治水目的の利根川河川工事は続けられているからです。国土交通省直轄の事務所だけでも、利根川上流、渡良瀬川、江戸川、下館、霞ヶ浦、利根川下流と六つの直轄の事務所を配置して、一生懸命に治水事業をやっています。関東を洪水から守るために。 つまり、利根川東遷は時代に合わせて三つの目的があったと私は考えます。関ヶ原以前は北の敵の南下を防御し、平和な江戸時代は穀倉地帯の創造と水運の発展をめざし、21世紀の現在は関東平野と首都圏の洪水防御を目的としているのです。歴史っておもしろいですよね。社会の変化によって解釈が変わるんですから。徳川家康は文献を何も残していないので、彼の考えは推測することしかできません。なので、語る人や目的によって解釈は変わります。歴史はそういう意味で自由なものなのです。 日本の国土を愛することが、日本という国家を愛することに繋がります。最近の人々は日本の国土にだんだん、興味を持ち始めていますよね。そういう意味で、タモリさんの影響は非常に大きいです。彼のような著名人にテレビのゴールデンタイムで全国各地の地形や歴史の話をしていただけることは、土木屋の私からすると非常に嬉しいです。そういった影響もあって、地形と歴史を学ぼうという新しい動きが出てきています。例えば、高校の必須科目である地理は地理総合に変わりました。「北九州のエリアはなぜこのような発展を遂げたのか答えなさい」というような、地形に歴史の要素を加えた入試問題が出されています。これがとてもおもしろい。 本日は、人間模様は一切ない地形からの歴史をお話しさせていただきました。地形から見るとこんな新しい見方ができるのかと皆さんに感じていただけたなら嬉しく思います。 ◆意見交換 江戸の堀や運河はどのように使われたのか 徳山 日頃あまり気にかけない江戸幕府と水資源の関係や、関東平野の繁栄の歴史などを興味深く聞かせていただきました。水資源や利水・治水の取り組みと国の発展はとても密接な関係にある事を再認識いたしました。 私の地元仙台には、仙台藩祖・伊達政宗公の時代以降に開削された「貞山堀」という運河があり、仙台城下の物流や排水事業の要であったと記録が残され、今も地元の観光資源や市民の憩いの場として親しまれています。一方、時代劇などを見ますと、江戸の町人文化にも運河や堀が大きな役割を果たしていたように感じます。利根川や江戸川などの主要河川や東京湾から、どのように運河を用いた物流・水運がなされていたのか、それらはいつ頃まで残されていたのかお伺いしたく存じます。 東京を再開発してもう一度新しい水辺都市になる 竹村 貞山堀はまだ残っていますね。立派な運河になって、仙台市民、宮城県民の宝になっています。江戸の運河は、東京が大発展したために、特に昭和39年のオリンピックのときに、残念ながらガンガン埋め立てられてしまいました。いま首都高の銀座線が通っているところは全部、昔は川でした。だから、変にぐにゃぐにゃしている。昔あった運河だらけの江戸は、姿形なくなってしまったのです。 ということで残念なのですが、いま隅田川の防潮堤３メートルのコンクリート塀を取ってしまおうという議論が起こっています。それで高潮をどうするのかと言うと、隅田川の河口でバリアをつくるのです。イギリスのテームズ川では高潮のときだけゲートが閉まる。通常は開けておいて船が行き来する。高潮を止めるバリアさえつくれば、刑務所のような塀は全部撤去できます。そうすると東京の隅田川と日本橋川の景観は極めて良くなるのではないでしょうか。 １００年後を考えて提案しています。東京を再開発してもう一度、安全で新しい水辺都市になることを「水都東京・未来会議」という団体をつくって自由に話し合っています。 仙台について一つ興味深い話をしますと、３・11で大きな震災があったとき、仙台は震災のその日から下水道が使えたのです。その日から下水排水は自然流下で名取海岸まで到達していた。政令指定都市で、下水道システムのポンプに頼らず河口まで自然流下で下水道が流れるのは仙台市だけです。なぜかと言うと、４００年前に伊達政宗は高台に仙台をつくったからです。それまで伊達政宗は大崎という湿地帯に居城を構えていました。伊達は豊臣秀吉の命令で大崎に封じられていたのです。しかし、関ヶ原の戦いでは、徳川方に付いて勝ったので徳川家康の許しを得て仙台に新しい町をつくります。仙台の旧市街地には堤防がありません。水害の危険がないからです。 ですから、震災で電気も水道も全部止まりましたが、仙台市民はお風呂に張っている水を使った後、下水に流すことができました。もし東京に直下型地震が来たら、電気は１カ月で回復したとしても、下水道はそう簡単にはいきません。あちらこちらにダメージを受けるから、排泄物が溜まって排出できなくなってしまう。首都圏が機能しなくなります。このようなシミュレーションをしなければいけない。東京で大地震が起きても、平然と１週間ぐらいで回復して復活できるような都市にしなければいけない。今は災害に対するインフラ整備を強化したり改修したり更新したりしなければいけないときなのだと、我々インフラ屋は考えています。 秀吉や家康は土木の天才？ 赤村 以前、司馬遼太郎の小説を読んだとき、豊臣秀吉は土木マニアだということが書いてあったのを思い出しました。先生のお話では、徳川家康は秀吉を上回る土木の天才であり、また策士であり、国づくりのアイデアマンということだったと思います。その舞台が広い関東平野であり、川であり、それらを制した徳川幕府が２００年に渡る統治を生んだと私は感じました。そういう理解でよろしいでしょうか。 先輩たちの良い知恵を受け継いでいた 竹村 その通りだと思います。これは、豊臣秀吉あるいは徳川家康が急に素晴らしい知恵を持ったのではなくて、歴史の積み重ねなのです。豊臣秀吉は、なぜ上町台地（大阪）に太閤下水をつくったのか。秀吉は上町台地の先端に大阪城をつくりました。上町台地全体は尾根になっています。だから、街をつくったとき水路を東西に向ければ、尾根の地形で自然流下によって下水を流すことができる。でも大阪市は太閤下水道を使っています。 それから、秀吉は大阪で地形を利用した街づくりをしましたが、これは源頼朝、平清盛まで遡ることができます。源頼朝が幕府を開いた鎌倉は綺麗な斜面になっています。その地形を利用して由比ヶ浜までずっと自然流下で汚物を流した。汚物は海の微生物が分解し、そのプランクトンを小魚が食べる。小魚を食べに来るために大きな魚が集まってくるという自然循環が生まれた。それが頼朝の鎌倉幕府の街づくりです。頼朝は特別に頭が良かったのかと言うと、実は平清盛という先達がいました。清盛は京都にいたのですが、京都は不潔で危険だったので、神戸の福原京に移ろうとしました。そこで都をつくりましたが、源氏との戦いが始まって全部焼かれてしまった。神戸の都も斜面地で自然流下で排水をする街でした。自然流下の街づくりは当時からベーシックな考え方でしたので、豊臣秀吉や徳川家康が特に優れていたのではなく、先輩たちの良い知恵を受け継いでいたのです。 やはり、何千年という長い日本の伝統です。歴史の重みはそういうところだと私は思います。日本のベーシックなインフラは何かと言うと、飛鳥時代の日本文明が生まれた奈良盆地だと思います。奈良は湖だったのです。周りは全部山です。10年か20年に一度大きな土石流が湖に押し出して土地ができていきました。日本で最初に土地をつくって、人々はその土地に自分の名前を役所に登録した。役所は「わかった。お前にその土地をやろう。ただし死んだら国のものだよ」という法律をつくっていった。普通、川は蛇行しているのに、奈良盆地の川はみんな真っ直ぐなのです。奈良盆地の川は人間がつくったからです。そういうところからスタートしているので、日本の文明の誕生は土木と密接に絡み合っています。ということで、地形と歴史を見直してみると、それが見えてくるのです。徹底的に気象と地形だけの目線で見るとおもしろいと思います。 洪水･浸水対策の方向性 小園 先生の講演は非常に楽しめて説得力のあるお話だったと感銘を受けています。２点質問させていただきます。本日は先生のいろいろな仮説をお聞きしましたが、書物やテレビでは聞けないポイントをいただいたと思います。それらのポイントは、今後の会話にも使いたいと思いますので、これは自信があるというポイントがあれば教えていただきたいというのが１点目です。 ２点目は、治水の話です。２０１９年の台風19号のときの湿地帯（海抜ゼロメートル地帯）側の緊張度です。私の親戚もそういうところに住んでいて、当時はかなり震え上がるような状況でした。洪水・浸水に対する今後の対策等々について、プロである先生から何か方向性があるのであれば教えていただければと思います。 「流域治水」という概念を使い始めた 竹村 最初の「自信のあるポイント」は、ないです。私の仮説を全部実証したら私の人生あと二つぐらいないとできないし、そんなことをやるつもりもありません。ですから、先ほど言ったのはヒストリーなので、皆さん方が嘘をつかないで仮説を言うのは自由です。フェイクや人をおとしめたりしてはいけないけれど、こういう仮説からこういうことが考えられると言うことが歴史なのです。 養老孟司さんは、私の書籍をこう論評していただいています。「竹村さんの文章はフェアだ。何がフェアかと言うと、彼の論調は一つの事実の絵から始まる。地形から始まる。地形がこうだからこうなのではないかと言っている。だから、誰でも途中から意見を言える」と。 歴史学ではどこかの屏風の裏に古文書があったとか、どこかの蔵から古文書が出てきたとか、もう年がら年中、新しい発見があって解釈が変わっているでしょう。それがおもしろいところだとも言えます。僕のスタイルは地形から見たらこうなのだというストーリーを語っていくことです。歴史の専門家が指摘しない地形だけで言っていくのが、私の得意技です。 私の本に歴史家からは誰もクレームが来ませんでした。それは、歴史家には古文書や遺跡という土俵があるのに対して、私は地形という違った土俵をつくったからだと思います。そこで自分の相撲を取り始めたら、歴史家はその土俵に上がって来ない。私も逆に歴史家の方々が一生懸命、人生をかけて研究している土俵に上がっていくつもりはありません。私は本でいろいろなことを言っていますが、ご自分が身近でおもしろいと思ったところは、どうぞ使ってスピーチしていただきたいと思います。 ２点目の台風19号についてです。これは大変でしたね。滅多にない大きな台風で、「あれほど立派な堤防をつくっても震え上がった」と利根川上流の河川事務所長は言っていました。この台風がきっかけとなり、国土交通省で何が始まったと思いますか？ 「流域治水」という概念を使い始めたのです。私は河川局長でした。河川局長は、河川法で「河川を守りなさい」という役割が定められています。河川は水が流れる樋なのです。私は樋の局長だった。その樋の中でダムをつくったり、堤防を強化したり、分水路をつくったりしました。それらはやはり樋の範疇なのです。 ところが、今の若い国土交通省の行政官たちが言い出したことは、この樋の中ではとてもやっていけない、流域全体で国土を守っていきましょうということです。概念が変わったのです。今の厳しい水害に対しては、国土交通省の先輩たちがやってきた樋の中の対策だけではもうダメなのだとわかったのですね。 というわけで、流域治水は堤防以外でも水を制御しましょう、というやり方を始めました。例えば、ある田んぼに洪水のときだけ水を入れることで治水機能を持たせる場合、水を入れたときの補償などいろいろな問題があると思います。流域治水の中には、ダムの嵩上げなど樋の中でやる工事も入っていますけれども、国土全体で守っていこうという概念になっています。このように、台風19号は次世代の行政官たちに影響を与えた水害でした。 利根川東遷と日本のエネルギー自給率 阿部 質問の１点目は、関東平野の治水の一番のポイントは利根川を切ったことであるというお話をいただきましたが、私は四国の人間で関東の土地勘がないので、利根川を切るというのは具体的にどういったことなのかを、もう少し詳しくご説明いただければと思います。 ２点目は、先生からご説明いただきました日本のエネルギーについてです。日本は今すぐエネルギー自給率を30％から40％にしなければいけないというお話を頂戴しましたが、具体的に今やらないといけないことは何かについて、先生のお考えを教えていただければと思います。 国富が毎年20兆円流出している 竹村 江戸時代の関東平野を見ると、利根川が関宿で高台にぶつかって南の江戸湾に下っていました。小貝川と鬼怒川は銚子のほうに流れています。この関宿の高台を開削したのです。だから、利根川を切るというより、あそこの土地を開削することによって、利根川が銚子のほうへ流れていくようにしたのです。実は、こういうことはいろいろなところでやっていて、例えば、関西では大和川を奈良から堺のほうへ切っています。利根川の微高地の土地を切って川の流れを銚子のほうへ持っていったことが、利根川東遷のポイントです。 次に、日本のエネルギー自給率の問題ですが、30％から40％がいいのかはわかりません。今年の初めに、ある商社の方に「いま海外からエネルギー資源をどのくらい買っているのですか」と聞いたら、大体14兆円ぐらいだと言うのです。14兆円という話をした後、１カ月か２カ月したらまた上がったので17兆円ぐらいになり、今は為替レートが円安に振れているので正確にはわかりませんけれども、20兆円ぐらいになっているのではないでしょうか。私たちの国富が毎年20兆円流出しているのです。日本はずっと貿易黒字国だったのに赤字国に転落してしまいました。エネルギーを入手するだけで、10年で２００兆円です。毎年20兆円を垂れ流しても10年間はもつかもしれない。でも、50年間はもたないでしょう。それから、年間20兆円では収まらず30兆円40兆円になるかもしれない。 エネルギーが足りない日本国がやるべきことは、自立した自国のエネルギーを確立することです。風力、太陽光、水力、地熱が主な自立電源です。これから電磁波を使った新しい技術ができるかもしれない。でも、東京や大都市に送る電気は大量につくらなければならない。各地方都市は分散型の自立電源で生きていく。しかし、大都市はやはり大発電所が必要です。日本列島全体を大きな発電所と分散型の発電所の組み合わせで、エネルギー列島にしなければいけない。 風力と太陽光と水力と地熱は、全て分散型エネルギーです。よく、東京の電力を水力で賄うにはどうしたらいいか？ とご質問されます。やり方はあります。例えば、甲府盆地をダムにするのです。しかし、高さ３００メートルぐらいのダムをつくれば、何十万人の都市を水没させてしまいます。技術的にはできますが、そんなことは社会的にできません。社会的にできることは、過去に先輩たちがつくったダムを嵩上げするとか、目的を変えるとかですね。 治水は代替案があります。しかし、エネルギーには代替案が意外とないのです。極端な言い方ですが、私はダムに溜めた水は全部水力に使ったらと言っています。エネルギーがなければ日本中の山々がまた丸裸の禿山になってしまうのです。山の木を切って禿山にしたのは我々の先祖なのですよ。自分たちが生きていくために木を切ったのです。 日本には、今はまだ力もあるし資金もあるので、ダムの嵩上げをやってくれということをお話ししている最中です。特にアーチ式コンクリートダムは嵩上げし、アーチダムの下流にＣＳＧ（セメントで固めた砂礫）で山をつくればいいのです。いま秋田の成瀬ダムで国土交通省が建設しています。先輩たちがつくったダムはものすごく重要な資源だと思っています。だから、今ダムの嵩上げを早くやろうという気持ちで言っているのです。 記憶に残る事業 松井 竹村先生は大学で土木を勉強された後に建設省に入られてダムや河川の専門家になられましたが、どういったきっかけで、その道に入っていったのでしょうか。建設省入省後にどういったルートをたどっていったのかを教えてください。それと、何か記憶に残っている事業等がありましたらお話しいただければと思います。 ダムをつくるのは男の夢だった 竹村 私の学生時代は、水力開発が盛んなときでした。当時はエネルギーが不足していたので停電が当たり前でしたから、石原裕次郎の『黒部の太陽』を観てダムをつくるのが男の夢という風潮でした。私は単純な男でしたから、ダムをつくる仕事はどこでやっているのかを調べて、一番つくっていそうな建設省に入りました。それに加えて、幅広い目線で世の中を見たいという気持ちもどこかにあったのかもしれません。 建設省では、川治ダム（鬼怒川水系）、大川ダム（阿賀野川水系）、宮ヶ瀬ダム（相模川水系）、最後はダムではなく長良川河口堰（三重県）と、私の役人人生は大構造物をつくることと共に歩んできました。それは横に置いておいて、今は既存のダムを有効利用しましょうと言っています。 東京の治水のためにすべきこと 松﨑 私は以前、千葉県の船橋・市川・浦安方面に勤務していたことがあるのですが、いま「江戸川」と言われている河川は大正期の開削事業で江戸川になったもので、いま「旧江戸川」と言われている河川がもともとの流れだったと教わったことがあります。 今は社会的にいろいろ困難な問題があるかと思いますけれども、先生の目から見て東京の治水のための開削や付け替えをやったほうがいいというところがあれば教えていただければと思います。先ほど高潮対策をすれば隅田川のカミソリ堤防は要らなくなるというお話もありましたけれども、もしいま手をつけるのであればここだというご意見があれば教えていただければありがたいです。 上流に遊水地・調整池・ダムをつくるしかない 竹村 いま関東平野は超密になっていまして、ここまで人々が集まったらこのエリアでは何もできないですね。都市部には住宅、工場等、重要な社会インフラがありますので、抜本的な治水をやるには、上流のダムまたは田園地帯に水を溜めて都市を守るしか策はありません。おっしゃる通り、江戸川は東のほうへ付け替えてきました。なぜそれができたのかと言うと、千葉の国府台の台地のほうへなるべく寄せて、江戸川を守ろうという合理的な考え方でやった。それは土地が十分にあったからできたのだと思います。ですから、今のような超密な世の中でできることは限られています。東京の治水のために何ができるかと言うと、上流に遊水地・調整池、ダムをつくるしかないと考えています。 なぜ家康は江戸城に拠点を置いたのか 印藤 関東平野は、武士の起こりからして北関東に農地があって、そこの農場主が武装して武士団になったと言われています。その経緯からすると、北に中心があって南のほうは先生が言われた大湿地帯と不毛の大地であったという構図だと考えます。そういう中で、北条氏が伊豆から出て小田原に拠点を置いて関東を制覇し、時を経て、徳川家康が国替えになったときに、穀倉地帯は北のほうにあるのに、周りは不毛の地で孤島のような江戸城に拠点を置きました。なぜそこに拠点を置いたのか、その理由を地形的な観点で教えていただければと思います。 秀吉の命令で押し込められた 竹村 徳川家康は、豊臣秀吉に江戸城を拠点にしろと言われたから行ったのです。１００年間、北条氏が関東を支配していたので、当時の群馬、茨城、千葉──関東平野には北条系の豪族たちが点在していたと思います。本当は群馬が関東の中心地です。私が自分で選べるのなら、江戸城のあたりの湿地帯より群馬に行きますね。だから、家康はわざわざ江戸に行ったのではなくて、秀吉の命令で江戸に閉じ込められたというのが本当でしょう。群馬にはちょっとした高台があって、騎馬を育てるのによい高原地帯です。家康は湿地帯と川のない不毛の武蔵野台地に囲まれた江戸に押し込められたのです。 壮大な土木工事ができた背景 藤原 私は利根川東遷に関心があるのですが、ご説明の地図を見ると江戸時代に壮大な土木工事をしたのがわかります。この工事が可能になったのは、それ以前と違った技術的なブレークスルーがあったからでしょうか。それとも、ときの権力者が強い権力をバックにして人海戦術でひたすら掘削工事が行われたのでしょうか。先生のご見解があれば教えていただければと思います。 素晴らしい技術を持っていたとは思えない 竹村 利根川東遷の工事は大変な工事でしたが、技術のブレークスルーがあったかどうかは疑問です。もう腕力でやったのではないでしょうか。なぜかと言うと、あの工事で何人もの人が死んでいるからです。せき止めた水が出たらドーンと流れてきますから、そこで働いている人たちが流されてしまう。ものすごく悲惨な話がある難工事だったと聞いています。どこかから何か素晴らしい技術を持ってきたとは思えないのです。だから、かなり力任せの人海戦術だったのではないでしょうか。 江戸時代の地形を把握する技術 宇佐美 私は生まれも育ちも関東なので、非常に身近なお話として聞かせていただきました。ありがとうございました。以前、仕事の関係で関宿（千葉県最北端）へ現場調査に行ったことがありました。実際に利根川と江戸川の分流点に立ちますと、国交省の説明文──江戸（東京）を守るために利根川と江戸川に分けられている等──を読んで理解できた気になっていましたけれども、あまりにも広大な土地で実際に現場にいてもほとんど地形が読めませんでした。衛星写真を見て説明を伺うと、なるほどと思えるのですが、当時はどこまで測量して地形を読む作業ができたのか。あるいは、房総半島を北から攻められるとまずいというのも、絵を見るとなるほどなと思えるのですけども、当時からそういう地理的な空間を認識できていたのかについて、ご見解がございましたらお教えいただければと思います。 口伝えで土木技術が繋がってきたのではないか 竹村 そうですよね、あんな平べったいところでよくわかったなと私も思います。一つわかっていることは、あそこで開削したのは、集落があるからです。集落があるということは、徳川幕府以前から、例えば奈良時代から誰かが住んでいたわけです。川の側で安全なのは高台だということは、測量しなくても直感でわかるのではないか。利根川東遷の工事ではたくさんの人々に提灯を持たせて並べて、夜に遠くから見て波うっていると、あそこは高いということがわかる──もちろん後からそういう測量もやったのでしょうけれど、徳川家康がフィールドワーカーとして見たのは、集落がどこにあるかというざっくりとした観点で判断したのではないかという気がします。 １６００年代ですから測量機器はないと言っていいでしょう。いま私たちが見ている鳥瞰図というか、俯瞰できる情報がないのに、昔の人はなぜかそれがわかったのです。先ほど言ったように、歴史の重みというか、口伝えでそういう土木技術が延々と繋がってきたとしか思えないですね。人間模様の文献は残っていますけれど、土木技術関係の文献はあまり残っていないのです。 明暦の大火（１６５７年）の後に、なぜ隅田川に橋をかけようとしたのか。あそこは完全に湿地帯、ヘドロ地帯ですから、どうやって基礎をつくったのか。本当に私も感心する以外ないので、今の質問には正確にお答えできないのです。 （終） 2023年7月5日 ホテルメトロポリタンエドモント/リアルタイム配信 司会 公益産業研究調査会 専務理事 堀籠 節 セミナー出席者 金子 洋平(東京電力ホールディングス) ・徳山 秀(東北電力)・ 藤森 誠(中国電力) ・阿部 雄介(四国電力) ・松井 宥典(北海道電力) ・伊東 照恭(北陸電力) ・北村 雅良(電源開発) ・定岡 祐二(みずほ銀行) ・柴崎 晃(大和リース) ・鈴木 行俊(大和リース) ・鈴木 寛(トヨタ自動車) ・福島 啓介(トヨタ自動車)・藤原 正彦(日揮)・ 小園 典晃(東芝エネルギーシステムズ) ・藤田 豊明(東芝エネルギーシステムズ) ・小俣 明(ダイヘン) ・石垣 一郎(古河電気工業) ・宇佐美幸一(川北電気工業)・ 青木 憲三(鹿島建設) ・小田 茂一(大成建設) ・小橋 栄作(大成建設) ・赤村 重紀(清水建設) ・松﨑 任宏(安藤・間) ・杉本 幸司(熊谷組) ・町村 俊彰(前田建設工業) ・福井 康仁(前田建設工業)・赤松 英樹(佐藤工業) ・大西 徳治(西松建設) ・吉竹 功一(三井住友建設) ・今村 一紀(東亜建設工業) ・仲村 敦(若築建設) ・印藤 久喜(鴻池組) ・大橋 裕寿(東洋建設) ・平山 昌男(東京ロードテクノ) ・中村 良晴(FEN) ・近本 一彦(日本エヌ・ユー・エス) ・山本 大介(関電工) ・中村 光宏(東電設計) ・小野 真裕(鹿島石油)

大土木技術者、 家康が築いた近代日本の礎【竹村公太郎】

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