阿川尚之

『公研』2023年2月号「めいんすとりいと」 昨年の秋、京都御苑に近い馴染みの和食の店で、一人食事をしていた。昼食には少し遅い時間で、相客は年配の夫婦一組だけ。静まり返った店内で、夫婦の会話が耳に入る。 「あなた、ＳＤＧって知ってる」と妻が尋ねると、「そら知っとるよ」と夫。「あら、そう。とっても大事なんやて」「そうやろな」「わてらも、努力せにゃあかんのやて」「そうやろな」 何気ない会話だけれども、年配の二人が昼食の席でＳＤＧを話題にするのに、いささか驚いた。私自身ＳＤＧが何なのか、よく知らなかったからだ。 ウェブで調べたら、ＳＤＧはSustainable Development Goalsの略で、厳密にはＳＤＧＳ。２０１５年に国連総会で「持続可能な開発のための２０３０アジェンダ」として満場一致で採択された。貧困、飢餓、健康、教育、エネルギーから、ジェンダーや国家間の平等、気候変動、平和などに関する17のゴール・１６９のターゲットで構成されていて、日本政府も達成を目指している。ただこの遠大な目標を、なぜ我々はアルファベットで表さねばならないのか。 最近、英語のアルファベット略語が氾濫している。ＳＤＧだけではない。ＥＳＧ、ＤＸ、ＧＸ、ＳＮＳ、ＩＣＴ、ＶＲ、ＥＶ、ＨＶからＬＧＢＴ、ＬＧＢＴＱ、ＢＬＭ、ＰＣ、ＭＡＧＡなど、限りがない。 アルファベット略語の大部分は、流行語と同じですぐ消えるだろう。しかし急速なデジタル化など、新しい技術や社会のあり方に関する言葉を、いちいち日本語で表すのは不便だ。 ただ、アルファベット略語の蔓延は、別な意味で心配である。一つは、よく意味がわからないままに、略語を好んで使う傾向である。岸田総理は１月の所信表明演説で、ＧＸ（グリーン・トランスフォーメーション）に言及した。「太陽光発電や風力発電など温室効果ガスを発生させない再生可能なクリーンエネルギーに転換し、経済社会システムや産業構造を変革させて成長につなげること」だそうだ。「ＧＸ」と呼んだ方が簡略で格好いいし、時代の先端にあると誇示できる。聞いている人の注意も引ける。それで総理は使ったのだろう。しかし国民は十分に理解しただろうか。 こうした略語自体には、そもそも意味がない。ところが皮肉なことに、それゆえに人口に膾炙すると妙な権威と正統性を獲得する。岸田総理は同じ演説で、ＧＸの次にＤＸ（デジタル・トランスフォーメーション）を取り上げた。デジタル変革を意味するこの言葉、いつの間にか天下の最重要課題であるかのように言われている。 しかし、どんなアイディアも無謬ではない。いかなる計画もうまく行くとは限らない。ＤＸを知らなくても構わないし、疑問を呈するのは健全だと思うのだが、何とはなしに逆らいがたい空気がある。ＤＸで社会はどう変革するのか、変革は何をもたらすのか、失われるものはないのか、うまく行くのか、と問えば、白い目で見られかねない。 人間は言葉を用いてものごとを考え、表し、それを伝える。言葉なしに人間社会は成り立たない。しかし言葉はしばしば一人歩きする。特に略語や短い言葉はいかようにでも意味が取れるから、人は自分に都合の良い解釈をし、それを時に強制する。ヒットラー、プーチン、習近平などの独裁者は、皆そうやって強大な権力を手にした。 アルファベット略語の氾濫が、そんな事態に直接つながると、私が恐れているわけではない。民主主義国家日本で、言論の自由は確保されている。それでもＧＸ、ＤＸ、ＳＤＧ、ＥＳＧなどの略語を、十分な検証なしに無条件で信じるのは、健全でない。ＶＲ（仮想現実）が現実そのものだと、錯覚したくない。 米国最高裁の歴史に名を残したオリバー・ウェンデル・ホームズ判事は、「Words（言葉）ではなく、Things（もの）を考えよう。現実と真実を見失わないために、言葉が意味する事実に戻って常にその意味を確かめねばならない」と書いている。その通りだと思う。 慶應義塾大学名誉教授

人口減少と世代間の共通の経験【阿川尚之】

言葉と現実：アルファベット略語蔓延の意味【阿川尚之】